asaの足あと

何気ない暮らしと、その中で、日々こぼれ落ちるささやかな幸せと小さな痛みをそっと静かに残すように、このブログをしたためています。

北川悦吏子の記事を手帳にはさむ

TVドラマで『あすなろ白書』をみていたのは、中学生の頃。
恋に恋する年頃に本格的に足をつっこみはじめたばかりのとき、
あすなろ抱きを夢見て、胸をキュンキュンさせたものです。
今では、毎日のように6歳の娘がとびかかってきて、
「ママだいすきー」とあすなろ抱きをしてくれる。
 
『愛しているといってくれ』が放映されていた頃は、
その影響だったのか、たまたまだったのか、
手話の指文字を教えてもらう機会があり、夢中になっておぼえた。
手でも、文字でも、声でも、
言葉を伝える手段をたくさん持ち合わせている私は、
とても恵まれている。
なのに、いちばん伝えたいはずの人に
いまだに上手に伝えられない。
本当に伝えたいこと、そもそも自分の本当の気持ちさえ
分からない・・・のかもしれない。
 
 
北川悦吏子  脚本のドラマには、ずいぶん夢中になりました。
『半分、青い』も見たかったなぁ。
 
昨年12月、新聞をめくっていたら目にとまり、
手がとまり、吸い込まれるように読んで、
切り抜いておいていた記事。
 

2018年12月3日日経新聞 医療・健康ページより

あまりにも、難病が治らないので、ひどくなると必ず、ググって人々の様子を知る。自分と同じように同じ病気に苦しむ人のブログを読み漁ったりする。患者の会などには一切、参加していないのだが。人は、自分だけじゃない、自分より大変な人がいる、と思うと救われるものなのだ。

この感覚、私だけじゃないんだと膝を打ったことがある。

たとえば、一瞬で命が失われた、なんてニュースがあるとする。有名人なこともある。あの人って、いきなりある夜倒れて、次の日の朝に帰らぬ人になったんだって。と、みな、気の毒そうに、残念そうに語る。

その時、私は、内心、「いいなあ」と思っているんである。

まあ、あまりにもその人が若い場合は、やり残したことがあるのにかわいそうだ、と思うわけであるが、そうでない場合。

ある程度のお歳で、ある程度、もう仕事も実績もある人な場合、最初に浮かぶ感想は「いいなぁ」である。

だれかがガンで死んだ、というのを聞いてもすぐに「その人の闘病期間は?」と思うのである。短ければ短いほど、ああ、いいなあ…と思うんである。不謹慎なことはわかっている。それが世間の常識とは違うこともわかっている。

しかし・・・。同じ難病の人のブログや掲示板をみると、みんな一斉に思っているのだ。ああ、あの事故で死んだのがなぜ、自分ではないのだ!と。いいなあ、一瞬で楽に死ねて。自分たちは死なせてもらえない、と。

本当に本当に、辛い闘病を重ねて来た私たちの本音である。どうしたって生かされる。苦しくたって、辛くたって、痛くたって、先が見えなくたって、もう死んでしまいたくても、生かされるのが医療の基本である。

それが間違っているとは思わない。光が差す瞬間もあるだろう。でも、私は知っている。ただただ、苦しんでだけ生きる人たちがいることを。高齢化が進む日本。そんな人たちは山ほどいると思う。

そこにはなんの結論もない。救いもない。年中、朝から晩まで痛みで叫んでいる人。病院に入院していると、そんな現実の中にいる患者さんにも遭遇することになるわけである。 

 

 脚本家 北川悦吏子さん 『どうしたって生かされる』

日経新聞2018.12.3「向き合う」より)

 
 
きらきらした作品でたくさんの人を魅了し、
希望や愛やときめきをふりまいてきたその裏に
壮絶な戦いと、果てしない絶望があったのだと…
同情とも尊敬とも応援ともいえるような、いえないような、
なんとも表現しがたい感情をぐっと抱く。
 
こんなに大変な思いをしている人がいるんだから
私の日々のちっぽけな悩みや痛みなど
とるにたらない とか、
こんな難病とたたかっている人がいるんだから
泣き言いってないでもっとがんばらないと とか、
そんな気持ちはまったくないのだけど、
それでもなんだかずしんと心に響き、
忘れたくないなと強く思い、
じょきじょきと新聞を切り抜き、
手帳にはさみこんだのでした。